雨台風が一段落した朝。曇天の下(もと)、
カサブランカという遅咲きのユリの花を切るために庭に出た。大きく開いた花には、
まだまだ香りこそ 雨に流され、薄くはなっているものの、花にも、葉にも十分 張
りや
瑞瑞しさが残っている。
目を閉じて、ハサミを入れた。
「パチン!」乾いた音に キリリっと 胸が痛む。命ある内に その残(のこ)され
た
わずかな命を絶つ作業は、何年も続けているが、私には、残酷過ぎる。
その残酷な作業こそが、来年の開花には 必要不可欠とはわかってはいるけれど、慣
れることがない。7分咲きの頃のカサブランカは、天を仰ぐように咲き、香りも暑さ
を忘れさせてくれるような、すがすがしさがある。花摘みが遅かった。切り取られた
花は20輪を超えていた。その香りにはわずかに爽やかさが残っていたが、その芳香
は、湿気を帯びた外気の中、花びらと共に命の最後を知ってか!飛び散る力も無くし
ているようだった。
この作業を終え、お礼肥を置き、盛り土をして、私の今年のユリとの会話は終了した。
植え付けから 9か月の終着点であり、来年の開花までのスタートでもある。
そもそも 私がユリの栽培を始めたきっかけは、今は亡き義父がはだかのテッポウ
ユリの二個の球根を届けてくれたことだった。その球根は、今になってわかったこと
だけれど、大変 大きな物だった。その翌年、咲いた花数は、一つの球根から伸びた
枝先に
20輪を超えていたことでもわかる。花は勿論、その香りは素晴らしいものだった。
ちょっと離れて見ると、花姿にも、芳香にも、どこか清楚さを感じた。
私は、すっかり ユリの魅力にはまってしまった。その後、毎年 テッポウユリを
植えつけているものの、開花時期になっても、道行く人は、冷たく一瞥するだけだっ
た。
この一瞥こそが、私の奮起を促した。
「いつか きっと 我が家の前を通る人たちが、しばし 足を止め、見てくれるよう
な
ユリの一角を作ってみたい」と思った。
数年が過ぎた。順調に育ってきたテッポウユリに、アクシデントが起りはじめてい
た。良い球根が手に入らなくなってきていた。
オリエンタルリリーや、カサブランカの人気が上昇してきたからかも知れない。
色花もいいが、私はテッポウユリの清楚さと香りが好きだった。 諦められなかった
。
ある日、夕食の支度をしていた私の耳にテレビニュースで、百合根コロッケの主材料
の
ユリ根の栽培農家の こだわりを背中で聞いていた。農家の人の話には、説得力があ
った。開花前の蕾を摘み取る作業を5年間も続けて、やっと コロッケの材料にまで
成長させるのだと言う。何の知識もなく、蕾が大きくなると、墓花(はかばな)の為
に、数本
切り取っていた事が義父のくれた球根を育てる事には大事だったのだろう。
目から鱗だった。球根を育てる事こそが 良い花を咲かせる原点だと知る。
小さな球根を育て始めてからは、球根を買う事も無くなった。
テッポウユリと出逢って約30年が経とうとしていた。
今年は、ユリの開花は早く、5月下旬にはポツポツ蕾が開き始めていた。
ユリの茎は100本を遥かに超えていた。
一番早く 蕾が開き始めたのが、義父の命日だったことも、不思議な巡り合わせだな
と思った。
6月中旬、良く晴れた静かな日曜日。二度目の花摘みを 朝早くから
(おこな行っていた。午前9時頃だった。東南の角を曲がり、わが庭の前を中学生か
?
高校生か?)自転車に乗った男の子の一群の一人が、
「ワァー!ユリがいっぱいだ。すごいよ」と声を挙げた。
その一群は、自転車を止め、振り返り、 それぞれに
「こんなの 見たことないよ。すごいよ、すごすぎるよ」歓声が青空に響いた。
彼らには、私の姿は映らなかったのだろう。嬉しく、ありがたく、感無量だった。お
よそ 花になど関心もないと思われる 中高生たちだからこそ尚更だった。その一群
は、北東の角を左に折れ、いつか、その姿も、声も消えていったが、私の心の中で、
彼らの残して行ってくれた 感嘆の声は、繰り返し、いつまでも、こだますのだった。
パソコンの事は何も書いてはいませんが、
パソコンあってこそ
書けた作文であり、
インターネットがなければ 出来なかったことでした。
来年は、ガーデニングを本格的に初めて30年になります。
皆様 ありがとうございました。
2015年9月掲載
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第30回宮古島トライアスロン大会にガイドの兵庫県トライアスロン協会理事のKさ
んとスイム3000m、自転車155km、フルマラソンの合計200km以上の
距離を走る大会に出場してきました。
4月17日(木)から沖縄県の宮古島に行きました。
トライアスロン大会の受付をしてから、市内でタンデム自転車の試乗をしたり、翌日
の早朝は、東急ホテルのスイムスタートの砂浜からスイム練習を
したりしました。
この時に、つけていた伴泳ロープがはずれてしまったり、大海前日の19日の早朝の
スイム練習の後、ペンションにタンデム自転車で帰る途中、後輪がパンクしたり、
修理後、ギアチェンジの調子が悪くなったりと色々トラブルが起こりました。
翌日が大会なので、19日のうちに解決しなければ、完走できないので、ガイドノK
さんとどうしようか?と不安になりました。
取りあえず、午後にタンデム自転車をスタート地点に預けなければならないので、そ
の時までにメカニックの方に頼んで見てもらおうと会場近くに行ったときに、「長井
さん」と僕を呼ぶ人がいたので、どなたですか?と聞いたら、なんと来月横浜の世界
選手権で僕のガイドをしてくれるJ君でした。
彼はバイクショップの定員でもあるので、メカに関しては、技術があり、僕のタンデ
ム自転車をその場で見てくれました。
不具合の原因も判り、調整してもらったので、元通り走れるようになりました。
また、その帰りにバイクショップに寄って、はずれた伴泳ロープに代わるバイクタイ
ヤのチューブを購入して、ガイドのKさんが、ロープの修理をしてくれました。
午後6時から、体育館で、盛大な開会式が行われ、そして、パーティとなりました。
やっとトラブルも解決して、いよいよ翌日がレース本番です。
20日(日)は、午前4時40分の送迎バスに乗り、会場に行き、受付をした後、一
番目のスイムの準備をしました。
午前7時に真っ白な砂浜からスタートで、スターターは阿部首相夫人が行いました。
1500人以上のアスリートが、日本有数の透明で、海底がくっきり見える海で、一
斉にスタートするのですが、視覚障碍者は、ぼくだけです。
僕たちは、後ろの方からスタートするようにと大会の事務局から言われていたので、
スタートの号砲がなってもしばらくは、動けませんでした。
数分してから、海に入り、泳ぎ始めましたが、周りは、凄い人ごみで、ぶつかりなが
ら、何処を泳いでいるのか全く判りませんでした。
ガイドのKさんを信頼して、ひたすら腕を回転させて、泳ぎました。
スタートしてからしばらくは、潮の流れに乗って、600m地点の第一マークのブイ
まで10分あまりで到達して、ブイを触りました。
それから、第2マークを目指して、夢中で泳いでいたら、人が固まって、前に泳げな
い所がありました。
どうしようもなくて、何十人もの人の上に乗りあがって泳いで、その場を切り抜けま
した。
後で聞いたら、そこが、第二マークだったそうです。
それからは、海岸に戻るのですが、潮の流れに逆らって泳がなければならないので、
泳力の弱い人は、なかなかスイムゴールにたどり着けません。
僕は、1時間6分37秒で3000mの水泳を終わり、ウェットスーツを脱いで、ヘ
ルメットをかぶり、バイクウエアに着替えました。
これも初めてのところだったので、トランジットで15分以上もかかってしまいまし
た。
次にバイクで155kmを走ったのですが、トランジットで時間を取りすぎて、バイ
クスタートも後方からでした。
ガイドのKさんは、自転車が得意な方なので、初めの20kmほどは、時速40km
近い速度で100台以上は追い抜いて走りました。
40kmあたりで、僕と同じチームのガイドで今回単独で出場しているOさんに追い
つき、追い越しました。
報道車が僕たちを追いかけて撮影したり、また、驚いたのは、その報道車に僕たちの
トライアスロンチームのメンバーでもあるM子さんも同乗していて、声援してもらっ
たり、写真を撮ってもらったりと、タンデム自転車が大変注目されている事を実感し
ました。
自転車コースは、100kmで島を約1周して、それから前半と同じ道路を走りまし
た。
道が狭くて、Uターンする所やアップダウンのきつい所などを5時間ほどで、平均時
速31kmで走り、ゆるやかな下り坂では、最高時速63kmも出ました。
自転車コースも景色が素晴らしくて、しんどさも感じないほどだったとOさんにあと
で聞きましたが、僕は全く見えないので、大変残念でした。
そして、最後のフルマラソンを午後1時36分にスタートしました。
このコースは、先月初めにトレーニング合宿で走ったコースなので、直線が多い、僕
には、走りやすいコースだと思っていたので、これで、4時間ほどで走れば、10時
間台でゴールできると思いましたが、そうは簡単ではありませんでした。
非常に天気が良くて、日差しがきつくて、路上の気温は、30℃近くあったような気
がします。
それに、ガイドのKさんが、前日からのトラブルの対応やスイムやバイクでエネルギ
ーを消耗してしまい、スタート2kmほどで走れなくなってしまいました。
僕は、元気でしたが、ガイドがいないと走れないので、回復するまで歩いたり、エー
ドで休憩したり、まだ時間が充分あるので、ゆっくり行きましょうと目標を完走に切
り替えました。
このレースでは、昨年優勝した河原さんもランでリタイアしてしまったそうです。
なんとか5時間半で40kmあたりまで来たときには、やっと完走できそうだと思い
ました。
競技場まであと100m前後になった時に後方から近藤マッチが来ました。と声がし
たので、ガイドのKさんに伝えたら、マッチには、負けたくないと、気力を振り絞っ
て、競技場に入り、最後の力走をして、12時間17分24秒でゴールできて、マッチ
とは、1分差で勝ちました。
そして、後で、教えてもらったのですが、ガイドのKさんが、作った「長井さん、
完走おめでとう」という大弾幕を僕たちトライアスロンチームのメンバーで沖縄在住
の M子さんに頼んでくれていたので、一緒にトラックを走って、ゴールの前で、大
きく広げてもらって、ゴールテープを切ることができました。
僕の夢をかなえるために協力してくれたマラソン練習会の伴走者やTRI6WEST
のトライアスロンチームのガイドの皆さんに感謝すると共に、ガイドのKさんの心遣
いに感動しました。
また、現地でサポートしてくれたM子さんやOさんや、応援してくださった皆さんに
大変感謝しています。
21日(月)は、午後3時から体育館で表彰式とパーティもあり、それが終わってか
ら、「ごうや」というお店での2次会に行き、100人以上の凄いトライアスリート
の皆さんと沢山話ができたり、報道関係の方々からもインタビューを受けたりと、夢
のような宮古島大会を体験できました。
また、来年も宮古島大会には出場したいです。
以上です。長文失礼しました。
今日は11月9日何の日?私にとっては記念すべき日なのです。
10月10日に初めて借りた点字小説を1か月かけてようやく読みおえたささやかな記念日なのです。
読み終えたばかりの点字小説の裏表紙を閉じながら
私はしばらくの間虚脱感に陥り、一種の放心状態になりながら、ようやくここまで読み終えた安ど感と達成感を感じていました。
と同時に昨年4月に初めて自分の指先で点字に触れながら、「鬼のH先生」が言われた言葉を思い起こしていました。
「一応3か月をめどに勉強を続けるかどうか判断しましょうか」と言われたのです。
あんに還暦を過ぎ62歳にもなった人が点字を初めて覚えられるだろうか、
もしだめならば早めにあきらめるようにという「鬼のH先生」の厳しさ優しさがあったのだと思われます。
その時手わたされた点字教科書の表紙を開き
最初のページの一面に書かれた「め」という文字の大群を指先でなぞりながら、これはいったい何?
まるで迷える子羊のごとく、あちらこちらを指先がさまようばかり。
ひとつのますのなかに六つの点、そのひとつひとつの小さな点を自分の鈍感な指先は読み分けてくれるのだろうか?
ひとつのマスの中の数個の小さな点の組み合わせを私の指先は文字として、記号として、文章としてとらえ、読める日がくるのだろうか?
教科書のページをめくり、たぶんいろんな文字が書かれているのだろう数ページを触れてみるが
私の指先は同じ感覚でしか伝えてこない。
不安で前途多難なスタートで「なんとしても頑張る」という気持ちと
「3か月も持たずにだめになるかも?」といういりまじった複雑な信教の中、
救いなのは先生が鬼の美人教師だったから続いたのかも。
しかしここまでくるまでには必ずしも平坦な道のりではなかった。
そもそも点字を勉強しようと思ったのは40代半ばで視覚障害になり、
50台後半で視力のほとんどを失いそれまで当然のように使っていた活字が見えなくなり、読めなくなり、もちろん書けなくなった。
耳からの情報に頼るばかりになってしまった。
そして60歳で会社を定年退職して、有り余るほどの暇な時間を利用して週に1・2回パソコン講習に通い、
失った活字文章はパソコンという魔法の箱を通して再び手にし、
メールで自分の文章を相手に伝えられ、インターネットで瞬時に情報も得られるようになったのだが、
それはあくまでパソコンという情報機器を通してのキーボードを叩いての文章作成だ。
たしかにパソコンも大変便利でよいのだが。パソコンという機器がなければつくれない。
そこで失った活字を点字としてよみがえらせ、もう一度自らの手で指先で機械に頼らず自由に手書きで文章を書き、
読めるようになりたいという欲求に駆られたからというのも一因である。
点字講習は1行32ます、16行を「め」というじで行を埋めることから始まった。
ますと行の感覚を養うためだという、がすべての点を埋め尽くすと3072この点を打つことになり、ただたんに同じ練習を繰り返すだけなのに単純ミスをおかすことになる。
そして50音の書きへと進み、「ま」行まで練習すると、
それまで練習した文字で文章作成という課題をもらい、家で四苦八苦して濁音を使わない川柳形式の7・5調で作ることを考えつきなんとかクリア。
そして50音すべてを使い短い文章作成という課題だ。
これには大変苦労したが濁音を使わずに文章をまとめるという難題を単語を入れ替え、文章を組み換えなんとかクリアする。
このころになると点字の勉強というよりも制約された限られた文字での文章作りに頭を悩ませていたが、
制約された状況下でうまく作れた時は違った意味で満足感を得られた。
そして拗音を使い濁音を使い、やっと普通の文章が作れるようになる。
して活字と点字の違いがやればやるほど鮮明になってくる。
活字はひらがな、カタカナ、漢字で構成され、一読して意味を理解することができるが、
点字の場合は一文字ずつ指先で感じながら、またいろいろな記号を使い分け、ますのあけかたひとつでまた意味も変わってくる。
点字という1種類の文字だけで記号を使い、いろいろな多種多様な文字に変換させる。
数譜を使い数字に、外字譜を使いアルファベットとして使う。それだけにいろいろなことを覚えなければならない。
同じような文章も数字を使った表記にするのか、かなのみで表記するのか、どこでますあけをするのか、はたまた数字とアルファベットを丸暗記しなければならない。
数字とアルファベット共通のあ・い・う・る・から、は・ひ・そ・ふ・む・まの26文字を
暗記しようと思い、暗記するまでお経のように口ずさんでいると、布団に入っても頭の中をあいうるらお化けの数字やアルファベットがかけめぐっていた。
なにしろ私の灰色の脳細胞はほかの人と違って記憶容量が小さい。
現在のSDカードのように指先に乗るようなちっぽけなカードでも、数十ギガバイトも記憶容量があり動作も早いが、
今の私は廃盤になりつつある何世代も昔のフロッピィディスクで、わずか数キロバイトの記憶容量しかなく、
たくさん詰め込めないし動作も鈍いので私としては、丸暗記するというのはほとんど至難の業なのだ。
それでも少しずつではあるが継続は力なり。ほかの人よりは遅くても、時間をかければなんとかなるのだということを実感するとともに、
いくつになっても新しいことを覚えるという好奇心をも満足させられる。
それにしても、「ルイ・ブライユ」には感謝するが、なんとかもっとこの展示もシンプルにならないものだろうか?
それから毎週のように月曜日の点字講習の日には、
その時々の話題や身の周りの話題、ラジオからのいろいろな情報、日盲連アワーからの情報、はてはデイジー図書の小説からの点訳などの文章を書き連ね、
講習日に「鬼のH先生」に読んでもらい、間違っているところを指摘をしてもらうのだが、
書くたびに間違いをなくそうと努力はするが灰色の脳細胞は正確には動作しないのである。
ただ私が作ったつたない文章でもかろやかに、リズミカルに流れるように美しい声で読んでもらい聞いていると、
どこかのアナウンサーに対面朗読をしてもらっているような名調子で、私が作ったわけのわからない駄作でも
プロが作ったような名分に聞こえるから不思議だ。
それだけ先生の声だけは、いやいや姿形も美しいのだと思います。と書いておこう。
なにしろ私は盲人なのですから。
毎日のように少しずつでも点字を書き数字やアルファベットを使った文章も間違いながらも作れるようになり、
書きと並行して4・5か月も過ぎたころ、読みの勉強が本格的に始まった。
鈍感な持ち主のいうことを全く聞かない左手の人差し指の出番がきたのである。
自分でもあきれるくらい私の意思を無視する人差し指なのだ。
最初は「め」がいくつならんでいるかだけを数えるのにも、すでにその時点でつまずいているアホな指先なのだ。
この先、大丈夫だろうかという不安が、そっと頭をもたげてくるが、
いかんせん私の持ち物なので「しっかり感じろよ」と優しくさとす。そうして甘やかせたのがいけなかったのか、
山なりの点だとか、でこぼこの形をした点も、いまひとつしっかりと判別しないまま、簡単な単語から覚えにかかるが、
これもまた初体験の指先は当然のように感じようとはしないのだ。
また書きと読みでは、真逆になるので、頭を切り替えるのも時間がかかるのだが、なんとかなだめすかし、ごまかしながらも指先を点字の小さな点に走らせる。
少し慣れてきたころ、次回の講習までに何ページかを指定して読んできなさいとの課題を出される。
有無を言わさずピシリと決め付けられ、私のように甘やかすのではなく、ビシバシと鬼の愛の鞭が飛んでくる。
これぞスパルタ教育のお手本だ。とかなんとか言いながらも、
家に帰り特訓を繰り返すと時間の経過とともに、少しずつではあるが、アホな指先も回を重ねるごとに反応を示すようになってきた。
やっと学習能力を高めてきたのか。最初は一文字ずつ指先全体で力を入れてぎこちなく進めていく。
わからないところは指先が同じますを行きつ戻りつ、上がり下がり、タイムオーバになるくらい前には進めない。
それでもわからない時は、私のとっておきの秘密兵器の出番だ。
打たれている点の番号を教えてもらいやっと解釈する。表記でわからないときは「点字の読み方一覧表」で該当する文字を見てもらう。
点字を読み始めたころは秘密兵器の出番も多忙を極めたがそれも少しずつ出番が少なくなってきた。
ただこの秘密兵器もとても便利なアプリだが外出等でそばにいないときは使えないのが難点といえば難点だ。
ある程度の練習課題を終えると、次は数ページから十数ページの童話を読むのが宿題となる。
最初に読んだ童話は何だったかは忘れたが、いずれにしても1ページを読むのに30分以上はかかっていただろう。
まさに悪戦苦闘の日々は続くのである。
しかも「鬼のH先生」は「金太郎」「呼子鳥」「象さん」「力持ち」「よたろう」
「スーホと白い馬」「ごんぎつね」「あわぶくこめぶく」「くわず女房」「赤い蓮華と白い蓮華」
「3枚のおふだ」「マリインモンロー」「アリババ」「しょじょじのたぬきばやし」「鐘の鳴る丘」
「カナリヤ」…。と次から次へと矢継ぎ早に宿題を浴びせかけてくる。
鬼の愛の鞭が飛び回る。宿題を作って出すのも大変だろうが、読むのはもっともっと大変なのです。
最初は一文字ずつしか読めなかったが単語として読めるようになり、文章として読めるようになり、全体を理解し、やっと内容を把握できるようになった。
しかしまだ数字はいいのだが、アルファベットが混在すると解釈するのにはまだまだ時間がかかる。
それに、ある日ヘルパーさんが先生の点字を読むのを見て、点字の上を指先で軽く触れ流れるようにすべらせて読んでいる。
それに比べて私の読み方は肩に力が入り、押しつけたようになってぎこちなくスムーズに指先が動いていないと指摘され、
それ以後はなんとか肩の力を抜いて柔らかく読むようにしているのだが、
読めないときはどうしても指先に力が入ってしまう。
そして今年の8月の点字協議会の初級部門に参加したのだが、その時の読みの点数があまりにも成績が悪かったので読みにはもっと頑張らねばと思っているのだが。
そんなおりもおり、教室で先生とのなにげない話題の中で最近どんな本を聞いているかという話題になり、
先生からハハキギ・ホウセイ著「三度(みたび)の海峡」という本がとっても良かったので聞いてみれば?という話が出たので、
早速家に帰り、プレックストークでデイジー図書を検索したがヒットしなかった。
ほかのタイトルは24冊もあるのになぜか「三度の海峡」は見当たらなかった。
念のため、パソコンを開けインターネットで検索したところ、ハハキギ・ホウセイ著「三度の海峡」は間違いなく存在した。
作家名もタイトル名も間違いはなかった。
そこで点字図書館に電話を入れて確認してみると、点字図書で他館から取り寄せることができるとのことなので、
点字を勉強しているからには最終的には点字小説を読むというのが私のひとつの目標でもあったので、まだ少し早いかな?と思いつつ
図書館の貸し出し担当の方に事情を説明してためしに1冊だけ貸していただけるようにお願いをしたところ、
いとも簡単に貸し出し許可が出てすぐに手配して送ります。とのことでした。
私が一番懸念したのは貸出期間のことでしたが新刊でなければ貸出期間もある程度の融通はききます。
先生も同様のことを言われていたので少し時間をかけて読んでも大丈夫かなと思いました。
読めなければそのまま返してもいいかなと思い軽い気持ちで借りたのがまさか…。
点字図書館に申し込んでから約1週間10月10日にそれは郵便局員が持ってきた。
呼び鈴がなり奥様が応対に出て帰ってくるなり「これは何?重たい箱が3箱も届いたわ。」と言いながら1度に持てないので2度に分けて部屋に持ち込んできた。
それがまさか私が依頼した点字小説だとは箱を開けてみるまで想像もできなかった。
その中には1箱の中に3冊の点字小説が入っており、合計9冊の点字小説が送られてきたのだ。
まさか「三度の海峡」が9巻もあるなんて!それも1度にまとめて送られてくるとは夢にも考えていなかったのだ。
その9巻を前にしてその重さもさることながら、膨大な量の点字図書という重圧に耐えかねて、
敵前逃亡を考えそのまま送り返そうと一瞬頭をよぎり、弱気の虫がうごめいたが、それではあまりにも情けないと考え直し、まずは1巻目を手にした。
そこでふと思った。これは鬼の陰謀、策略ではなかろうか?
デイジー図書がないのを知りつつ、私の好奇心の旺盛なところを見抜いて点字図書のほうに何気なく導いたのではなかろうか。
そして膨大な点字図書の山を目の前にして、愕然としている私の姿を想像してにんまりとほくそえんでいるのではないだろうか。
私はまんまと鬼の術中にはまったような気がした。これは私の被害妄想なのかも?
1巻目の表紙を開け本文の1ページ1行目一文字ね
に左手の指先を置き右へとすべらせていく。
まずは1行、1ページ、2ページと読み進めとりあえず80ぺーじほどある1巻目を読破することを目標として読み進めていった。
第1巻を読み終えた時点で全巻を読み通すことができるかどうか判断をしようと思ったのだ。
1巻を読み終えるのに4日間を要したのだが、単純に計算すると全巻読破するのには36日、1か月以上かかるが、
せっかく点字図書館の担当の方が手配してくれ、たここまで点字を読めるまでに導いてくれた「鬼のH先生」に対しても途中で投げ出すわけにもいかないと思った。
ただ読み終えるまでの1か月間は週に3・4回外出する以外の空いている時間はほとんどこの小説「三度の海峡」に向かっていた。
用事のない日は朝食を終えると同時に本を手にして、しおりを入れた続きから読み始める。
そして1日中本と向き合うのだが、午前中は私の指先もまだ機嫌よく、テンポよく、スムーズに読み進めてくれるのだが、
昼食をとり少し休憩をしてから読みかけると、私の指先も午前中からの疲れからかハンスト状態におちいり、
私の意思に逆らい思うように解読していかない。スピードも乗らない。指先の感度も鈍くなっている。
私の指先ながら根性もなく情けないかぎりなのだが、そんなことはおくびにもださず、なだめすかし、叱咤激励し、
はたまた指先をマッサージしてやり、なんとか前へ前へと読み進めていくが、夕方風呂に入った後は指先もぬくもり、
一時的に機嫌がよくなり、しばらくはスムーズに働いてくれるのだが、すぐにまた読むのを嫌がる。
持ち主とよくにた根性不足、忍耐力の欠如した指先なのだ。
ただ2巻目3巻目と読み進めていくうちに、この小説の面白さにどんどんのめりこんでいく自分を感じた。
物語はプサンにいる主人公の韓国人実業家に届いた1通の手紙から展開していく。
ストーリーはプサンと福岡筑豊の間によこたわる海峡を三度(みたび)渡ることになったいきさつを現在と過去を交互に展開しながら描いていくのだが、
1度目は17歳で韓国から強制連行され、戦時中の筑豊の炭鉱で強制労働させられるのだが、
そこでの苛酷な環境下での生活に命の危険を感じ、生死を賭けて脱走して、土方(どかた)や港湾人夫となりそこで知り合った日本女性と恋におち女性は身ごもる。
そして終戦を迎え、再び海峡を渡り韓国の故郷に戻るが、家族には迎え入れてもらえず、女性とそこで生まれた赤ん坊は日本に連れ戻される。
主人公は村を出てプサンで45年間日本には振り向きもせず、死に物狂いで働き実業家として成功するのだが、
そこへ在日韓国人の旧友から1通の手紙が届き戦中戦後のあらゆる忌まわしい過去をを清算するために三度海峡を渡る決意をする。
三度海峡を渡り、赤ん坊のときに分かれた息子と再会を果たすのだが…。
全編を通して戦前戦後の苛酷な運命、逆境下の生活にもめげず、不屈の精神力で生き抜いてきた男の半生の物語であった。
私は4・5巻目ごろからこの作品にはまってしまい没頭した。外出していても早く家に帰り続きを読みたい。
家でご飯を食べた後もすぐに読みたい、一刻も早く先の展開を知りたい。ただいかんせん私の頭ではどんどん先を読んでいけと指先に指令は出すものの、
疲れてくるとすぐに休みたがり、どんどん先を知りたい思いと、指先は働のを嫌がり、思うように読み進めないというジレンマにおちいる。
それでもなんとか熟読はしたとは言えないが、全編を読み通してくれた指先に「ご苦労さん。お疲れさまでした」と今日ばかりは少しは褒めてあげよう。
私はこの「三度の海峡」という点字で書かれた小説を自分の指先で読むことができるようになったおかげで、
時間や空間を忘れて夢中にさせる小説の持つ素晴らしさを感じ自分の指先で感動する喜びを覚えた。
視力障害で「視覚」を失い活字文章で得られた感動は二度と再び手にすることはできないだろうと断念したが、
再びそれはデイジー図書という形で手にすることができた。
デイジー図書も視力障碍者にとってはなくてはならない素晴らしいものだが、それはあくまで「聴覚」に頼る話者を通しての読書だ。
しかし私は活字から点字という形で文章を書き、「指覚(しかく)」で完璧とはいかないまでも小説も読めるようになった。
視力障害で失った活字を点字として再び手にし、自分の手で文章を書き、考え、そして素晴らしい小説も自分の指先から感動が伝わってくる。
失った文字を点字としてよみがえらせていただいたのは「仏のY先生」の教えがあればこそだ。
時には厳しくそしてまた厳しく私を導いてくれたYH先生ありがとうございます。
今年も(ラン&うぉーく)が開催されると聞いたのは、6月に入って間もなくの事だった。
運動不足解消の為に続けてきたウォーキングも10年を超えた。
昨年、このイベントに参加し、ゆっくりなら走れることを体験していた。
2度目の今年はどの程度のタイムで走れるのかを試してみようと、
いつものウォーキングにも、1キロ10分で歩くという目標を持って、雨の日も、
風邪の強い日も、暑い夏もイベントで走る自分をイメージしながら ひたすら早歩きに燃えていた。
当日の朝、伴走者の方と走る私がゴール地点に向かい走るのだが、
いくら走ってもゴールが見えてはこない。夢をみていたようだ。不安が胸に広がる。
会場である岸和田中央公園広場には、すでに受付を済ませ、コースを走る人や、歩く
人でにぎわっていた。
日本中の秋空がこの会場に集合したかのような、どこまでも続く青い空、そよそよと
吹く風が心地よい。
最高のランニング、ウォーキングびより。
10時過ぎ。ランとウォークに別れ、イベントは幕を切った。
ウォークで申し込んだ私は、ガイドさんと、輪にした紐を持ち、ムカゼ歩きの要領で
一歩一歩歩きだした。
意外なほど足は軽く、一周800メートルを6分20秒で歩け
た。
2周目からはランに切り替え、800メートルを何分で走れるかと 自分の時計で計
った。
ウォークとは違い、ランはスピードが上がる分 伴走者の方との距離感、カー
ブでの態勢の調整が大事と知った。
ようやくコースのアップダウンやカーブの曲がり方にも慣れた頃、
グランドの土の優しさが、ふと 中学、高校で走った時の記憶を蘇
らせた。
当時、5キロを25分以内で走っていた。その記録を求めるのは無茶という
もの。
計5周走ったが、1周平均5分前後だった。
2周目からは、伴走者も経験のある女性に変わり、
「ファイト」と伴走者の方のかけ声に
「ファイト」と、私もおうむ返しのように声を出して走っていた。
点々と植えられている木々、木々の間から射し込む夏の名残を感じさせる陽射しの強
さ。
そのバランスが実に良い。
日なたを走り身体が熱くなると、こかげが蒸気した体を冷
ましてくれるようだった。
この体験で私にも、5キロ 30分以内で走るという目標
が出来た。
もちろん、夢は中学、高校時代のタイムで走るのが夢だ。
その頃が太陽の位置で言うなら、午前9時頃か!
今の私はすでに正午を過ぎ、太陽が西に傾きはじめた午後3時か?
走ることから離れて、重ねた年月、体重も10キロ上乗せされたこのからだ。
おまけに全盲となった私だ。
それを自覚しながら、心身共に上昇気流まっただ中の記録への
挑戦。
無理だと思うけれど、弱気になる自分に負けたくはない。
適わないのが夢だからね。
5月12日(日)は第3回目のトライアスロン世界選手権シリーズ横浜大会(パラの
部)に出場して来ました。
前日の11日に受け付けと競技説明会があるので、午前9時10分の新幹線で新大阪を
出発しました。
12時ころに横浜のみなとみらい線の中華街(山下公園)駅に到着して、
山下公園内のホテルに荷物を預けてから、中華街で昼食を取りました。
前日の横浜は、一日中雨で、タンデム自転車の設定や試走などがほとんどできず、
説明会への移動など、いままでよりも負担が多かったです。
大会当日は、午前6時に受け付けなので、4時半に起床して、5時半にホテルのロビー
に集合して、徒歩で数分の大会会場に向かいました。
午前6時には、まだ小雨が降っており、海水温が17℃というアナウンスがありました。
僕は、三重県出身で、熊野灘で泳ぎを覚えたのですが、こんなに冷たい海で泳いだ事
が無かったので、気が重くなりました。
午前7時に大会の開会式が始まり、僕たちのパラトライアスロンの部は
7時15分のスタートでした。
スタート時には、幸いにも雨が上がり、水温も19℃と少し上がりましたが、水が冷
たくて、誰も試泳をする人はいませんでした。
横濱港に特設された浮島からスタートをするのですが、これは、前日に開催されたエ
リート選手が使用した同じコースを僕たちも使用させてもらう事ができるので、
恵まれた環境だと思いました。
スタートの笛が鳴って、6つの障害のカテゴリーの24人のトライアスリートが
泳ぎ始めました。
僕のカテゴリーはTRI6という視覚障害のクラスで
伴泳者とひもでつないで泳ぐ事が認められています。
しかし、今回の横浜港は、直前までの雨などの影響で、港の中といってもうねりがあ
って、体が左右に振られたり、伴泳者とぶつかったり、非常に泳ぎにくかったです。
海に浮いているブイの外側を左回りに750mを泳いで、
浮島に戻り、タンデム自転車を置いてある、トランジットまでウエットスーツを着たままで走り、
そこで脱いで、自転車用のヘルメットをカぶり、シューズを履き
20kmの山下公園のコースを走りました。
山下公園のコースは、狭いので、Uターンを何回かして、3周するコースです。
最後にランになるのですが、これも1周2kmを2周半して5kmを走る迷路のよう
なコースで全盲の僕には、とても走りにくいコースでした。
このようなコースでしたので、自分の順位が何位なのかも判らずに、
ゴールが近づいてきました。
そこで、初めて、自分たちが全盲の部で1位だという事が判りました。
今回は、日本で初めて、ITU(国際トライアスロン連合)の公認レースに指定された会だったので、
また、今まで2回とも勝てなかった、佐賀県のパラリンピックマラソンの金メダリストのYさんに勝てたのは、大変嬉しかったです。
表彰式では、初めて表彰台の一番高いところに立つ事ができましたが、表彰台に立つ
前には、第から落ちないかと心配していました。
表彰台には、スロープで上がるようになっていて、あぶなくなくて、心配しなくても
良かったです。
そして、金メダルをかけてもらいました。
今年度のITU(国際トライアスロン連合)の世界ランキング(全盲の部)では、一
応ランキング1位になっています。
でも、来月には、順位は下がっていると思いますけどね。
3年後のリオのパラリンピックには、トライアスロンも正式種目になるのですが、
その時まで、体力が続く限り頑張りたいと思います。
副題
」「点字も必要
自分の可能性にフタをしないでください」
(注釈) 文中に書かれている(ホットエッセンス)とは、H市にあるテンテンムシと
いう 点字サークルが、毎月一冊発行している点訳された、ホットな話題を掲載して
いる冊誌です。
これこそが 私の点字習得の教科書でした。
点字サークルの皆様。いつもホットエッセンスをありがとうございます。
このサークルに通い始めた頃、私にはこのホットエッセンスはレベルが高く、ひとつ
の話題さえ読むことが出来なかった。
点字の門は大きく開かれているのに、そこへ辿り着くまでの道は険しく、困難を極めた
。
そんな状態から皆様のご指導により数年かかり、スケートリンクをスイスイ滑るようにこの指は進めなかったけれど、ボチボチ
一冊のエッセンスを読めるようになったのだが、昨年、肩を痛め、大事な指先までしびれ、触読が出来なくなってしまった。
人と話をしていても、頭の中で会話のスピードで点訳できるのに、
シビレタ指先はひとつの単語も伝えてはくれない。悔しさと無念さに押しつぶされそうだった。
そして年が明け、一念発起してエッセンスの読破を再スタートさせた。朝夕 時間を決め、点字の読みを続けていった。
わからない単語につまづいたら、行頭に戻るのではなく、そのページの初めから読み直す。一冊のエッセンスを読むのに一ヶ月以上もかかったが、二冊目は20日ほどで読み上げることができた。
ここまでくると、どんな用事があっても時間になると、エッセンスを読まずにはいられくなった。
一日休むとまた、読めなくなりそうで。五冊目を読み始めた頃、サークルの方が、点訳本を届けてくださいました。
いつも朝から聞いている番組のアナウンサーが著者だったこともあり、読めるか?読めないか!ではなく、早く読みたいという願望が強く湧き上がってきた。
読みかけていたホットエッセンスを読むスピードが各駅停車から急行に乗り換えたかのようにアップして行った。
一週間ほどしてようやく念願の
「道上 洋三(どうじょう ようぞう)のないしょ話」を手に取り、目次もそこそこに本文に入っていった。
ちょっと時間があればいつも 私の膝の上にはこの本がある。どんなに忙しくても、次はどうなる?心の中はそのことばかり。もう夢中だった。
第3巻も終わりに近付くと寂しささえ感じた。
台風でサークルがお休みとなったのも
私には幸いだった。この本を三度も読めたのだから。
二度目は、いつもつまづく特殊音や、外字譜もクリアできた。
三度目は感動した所を再度読み返した。点字をあきら
めないで良かった。
ホットエッセンスがなかったら、「拝啓 マスマス・・・」で始まる堅苦しい郵便物を読めるだけで満足していたかも
知れ ない。やっと見つけた点字への道。私はまだまだこの道の上。
僕は、約6年半前からマラソンを始めましたが、フルマラソンや100kmウルトラ
マラソンも完走できたので、もっと視覚障碍者でもできるスポーツはないかと色々挑
戦するようになりました。
昨年から、トライアスロンの視覚障碍者の部があると聞いて、始めてみました。
それで、昨年に続いて、9月30日に開催されるパラトライアスロン世界選手権シリ
ーズ横浜大会に出場するためのスイムのトレーニングとして、琵琶湖の西湖岸の近江
高島から東湖岸の彦根港までの約16kmを泳いで、リレーする大会があると聞き、
参加しないかと誘ってもらったので、一度、挑戦してみようと思い、8月26日(日
)の大会に参加してきました。
まず、大会前日にJR弁天町駅前に行き、そこで、僕の伴泳をしてくれるガイドと待
ち合わせをして、同じチームのメンバーの方の車で、滋賀県の長浜市の民宿に行きま
した。
そこで、メンバーが集まるのを待って、食事をして、翌日の朝が早いので、21時すぎに
は、みんな床に着きました。
翌朝は、午前5時に起床して、5時半に民宿を後にして、6時からの大会受付をする
ために3台の車に分乗して、彦根港を目指しました。
僕たちのチームは、選手6名と僕の伴泳ガイドと応援の方の合計8名ですが、視覚障
碍者は、僕だけでした。
受付後の午前6時半から、全員でラジオ体操をして、それから、開会式が行われまし
た。
午前7時に彦根港から、2チームずつ5隻の船に分乗して、対岸の近江高島の砂浜近
くまで行き、そこで、チーム毎に船を乗り換えました。
大一泳者だけが、船を降りて、砂浜のスタート地点に移動しました。
午前8時過ぎにスタートの号砲が鳴り、一斉にスタートしました。
この大会は、10チームが参加して、1チーム6名で、1回目は順番に30分ずつ各
々が泳ぎ、2回目からゴールまでの16kmを、10分ずつを泳ぐという規則になっ
ているのですが、僕たちのチームの大一泳者である元水泳部の女性が、緊張したせい
か、30分を泳ぐ前にしんどくなってしまい、早めに第2泳者に交代しました。
この日は晴天で、水泳日よりだと思いましたが、やはり、琵琶湖は、広くて、少し風
があると波が出て、プールでしか泳いだ事のない泳者には、大変泳ぎにくかったよう
です。
琵琶湖は広いので、ゴールは勿論見えなくて、各チームの船は、まず、スタート地点
から5kmほどの距離にある沖の白石という岩を目指して進みました。
僕は、ウエットスーツを着て、6番目の泳者として泳ぎました。
ウエットスーツを着ると、浮くので、泳ぎやすいのです。
まず、船から水面までは、1mほどの落差があり、船上から飛び込んで、前の泳者と
タッチをしてから、泳ぎ始めました。
今までは、海などで泳ぐ時には、僕と伴泳者とを自転車のチューブを3つつないだ物
を使って泳いでいましたが、今回は、ロープなどを何も使用せずに泳いでみようとガ
イドの方が言うので、少し心配でしたが、泳いでみました。
そうしたら、プールとは違い、波があるので、全盲の僕は、目印の船が見えないので
、左右が判らないし、前進しているのかどうかも判らず、真っ直ぐに泳げずに戸惑っ
てしまいました。
それで、ガイドの方が僕の右に来たり、左に来たりして、方向を修正してくれて、な
んとか初めの30分を泳ぐ事ができました。
泳いだ後は、次の泳者にタッチをして、その時だけ船が停止してくれるので、はしご
を使って、船にあがりました。
2回目からは、各々10分ずつ泳ぐので、初めよりは時間が短くて、速く泳げたよう
です。
泳いでいる時は、しんどいのですが、船上で次の順番待ちの時には、食べたり、飲ん
だり、メンバーの方々と話ができるので、楽しいひとときでした。
沖の白石という岩を過ぎると、今度は、コースの3分の2地点あたりにある多景島(
たけしま)を目指して進みました。
僕は、3回目、4回目と回を重ねると慣れて来て、泳ぎ方も初めは、ガイドに頼らず
に自分で真っ直ぐに泳ごうとしましたが、琵琶湖のように広いオープンウォーターで
は、どうにもならなくて、ガイドの足や体に手で当たりながら、小判鮫のようにくっ
ついて泳ぐと真っ直ぐに泳げる事が判りました。
多景島を過ぎると残りが5kmほどになりました。
僕の順番が5回目になった時にゴールまであと700mに迫って来たので、メンバー
の方々が僕とガイドにゴールするようにと言ってくれました。
それでは、ゴールまで泳ぎますという事で、力を振り絞って最後の泳ぎをしました。
ゴールは、彦根港の隣にある鳥人間コンテスト会場としても有名な松原水泳場の砂浜
です。
砂浜に近づいて来ると、浅くなってくるので、また波が出て来て、その上、向かい風
のために、なかなか速く泳げませんでしたが、足が着くほど浅くなってきたので、い
よいよゴールにせまってきたと判りました。<
僕とガイドが砂浜を駆け上りとうとうゴールテープを切る事ができました。
今回は、初心者が多いチームで、時間内でゴールできるかどうか判りませんでしたが
、なんとか6時間余りでゴールできて、おまけにゴールテープを切らせてもらったの
で、大変思い出に残る体験となりました。
これからも視覚に障害があっても色々なスポーツに挑戦して行きたいと思います。
僕は、6月30日(土)から7月1日(日)にかけて、長居公園から明石までの
約70kmを長居わーわーずの皆さんと雨の中、走りました。
午後9時に長居障碍者スポーツセンターを視覚障碍者3名とガイドランナー7名で、
スタートして、今里筋を北に向かい、大国町あたりから四ツ橋筋を通り、午後11時
過ぎにJR大阪駅に着きました。
ここで、トイレ休憩などを取り、大阪駅から参加の視覚障碍者2名を含む11名が、
合流して、淀川を渡りました。
十三(じゅうそう)を抜けて、尼崎市に入ると、山幹(ヤマカン)通りを走り、ひた
すら西に向けて走りました。
雨は降り続いていましたが、あまり激しくなかったので、走ると蒸し暑く感じて、約
5km毎にコンビニに立ち寄り、スポーツドリンクやおにぎりなどを食べて、赤信号
を守りながら、西宮市、芦屋市、神戸市へと最近全通した、山手幹線道路を走りまし
た。
しかし、雨が強くなったところやしんどくなった人が出てきて、始発電車が動く時間
になっていたので、六甲口や神戸の三宮あたりで、走るのを止めて、電車で先に明石
に向かった人も出て来ました。
神戸市も東灘区、灘区と走り、そして、三宮に着いた時は、午前6時ころになって
いました。
長田区から、昨年神戸マラソンで走ったコースである、国道2号線に入りました。
明石まであと約25kmなのですが、参加者は半分ほどの人数になってしまいました。
そして、須磨区、垂水区まで来たら、明石海峡大橋が近づいて来ました。
この橋の下を通り抜けると明石まであと5kmほどです。
そして、明石駅が見得て来て、その前を通り、滝の湯という銭湯に午前10時10分
にとうとう到着しました。
結局、僕は、8名の伴走者に交代でロープを持ってもらい、最後まで走ったのは、僕
を含めて、11名でした。
直ぐにお風呂に駆け込んで、ゆっくりと疲れを流してから、明石駅前で、卵焼き(明
石焼き)とビールで打ち上げをしました。
初めて食べた卵焼き(15個)は、初めは、露にネギだけ入れて、そこに卵焼きをつ
けて食べます。いくつか食べたら、生姜を追加するとまた違った味を味わう事ができ
て、大変美味しかったです。
JR大阪駅から明石まで11時間あまりかけて走りましたが、帰りは、明石からJR
の新快速に乗ると、40分ほどで、大阪駅に着いてしまいました。
帰宅したら、直ぐに爆睡してしまい、気がついたら、夜になっていました。
雨の中のナイトランでしたが、走りながら、伴走者の方と色々な話をしながら、楽し
く走れた事は、僕にとっては、忘れられない体験となりました。
以上です。
9月18日(日)は、日本で初めて開催された
パラトライアスロン世界選手権横浜大会に出場してきました。
今年からトライアスロンを始めたのですが、
海で泳いだのは(もう20年近くも前の事で、無事に泳げるか不安でしたが、
午前7時45分にスタートなので、
伴泳者(ばんえいしゃ) と自転車のチューブを体に付けて、
お互いの腰のところでつなぎ合わせて3分前に横浜港の桟橋から海に入りました。
勿論、深いので足がつかなくて、スタートまで立ち泳ぎをして号砲を待ちました。
号砲が鳴って、泳ぎ始めましたが、どちらの方向に泳いでいるのか判らずに無我夢中で、
750mを泳ぎました。
泳ぎ終わると、海から自転車のトランジットエリアまで
約350mほどの上りの坂道をウエットスーツを着たまま裸足で走りました。
そこで、ウエットスーツを脱いで、
ソックスとランニングシューズを履き、
ヘルメットをかぶり、タンデム自転車をスタート地点まで二人で押して行きました。
自転車は、乗ったり降りたりするエリアが決まっているので、
そこ以外で乗り降りすると失格になってしまいます。
それから、20kmをタンデム自転車で走るのですが、
山下公園の中の迷路のような一度も試走できなかったコースを走りました。
タンデム自転車は、一人乗りの自転車よりも大きくて、小回りが効かないので、
Uターンが沢山あるコースでは、速度をすごく落とさないと曲がる事ができないので
非常に走り肉かったです。
その後、前の全く見えなくしたメガネをつけて、
伴走ロープで伴走者と
最後のランを5KM走るのですが、
当日の横浜は、すごく天気が良くて、めっちゃ暑くて、
給水場所を求めながら走っていました。
でもランのコースも狭くて、距離表示もないし、迷路のようになっているので、
今どのあたりを走っているのかも判らないまま走っていました。
そしたら、何故か後ろからパラリンピックマラソンの金メダリストである
柳川さんペアが追いついてきて、追い越されました。
その時に、初めて僕の方が先に走っていたんだと判ったのですが、その時には、もう
、ヘトヘトで追いつく力がなくなっていて、
結局、1時間36分18秒の15秒差で
2位でのゴールでした。
やはり、柳川さんのように何度も経験して、トライアスロンの力の出し方や走り方も
熟知していないとうまくゴールできないんだなあと勉強になった大会でした。
しかし、このような世界から沢山の人たちが来て、
横浜という所で世界選手権とい大きな大会に出場できて、
色々な体験ができて、とても楽しかったです。
また、19日(月)は、神戸マラソンの試走会があったので、
横浜から帰阪した翌日でしたが、
JR三宮駅から明石海峡大橋までの往復の約40kmを
視覚障害者ランナー十数名を含む44名の方々と走って来ました。
今度は、10月30日の大阪マラソンと
11月20日の神戸マラソンを頑張りたいと思います。
以上、パラトライアスロン世界選手権の完走記でした。
ゴールデンウイークの5月3日~5日 熊本 阿蘇 由布院と
行ってきました。
まず 3月12日に新大阪~鹿児島中央までつながった九州新幹線
「さくら」に 乗りました
8両編成なのですが 私が乗ったところは 半分がグリーン車で
半分は普通指定席と 言う ちょっと今までの新幹線にはなかったであろう
車両に乗りました
社内は、 おちついた木目調で 2列 2列の座席で
縦も横もゆったりと広くとってあり、 あまり揺れない車内で感動しました。
熊本まで約3時間20分で着き、 やはり早いなと感じました。
熊本駅には可動式のホームドアらしい物も設置されていたようです。
4日には 加藤清正が築城したと言われている熊本城を
タクシーの車内からみながら 阿蘇山へ行き 火口付近で 入山を許可されるまで
半時間ほど待ちましたが
「時間もかかるので 記念館でも見て行きましょうか?」と あきらめかけた時に
許可がで 本当の火口を見ることができました。
5日の由布院では 辻馬車と言う物にのり 5歳の 「くり」ちゃんと言う
雌馬が 大人 10人と 操る人を乗せた 2トンにもなる車を
引いてくれました。
何頭か居るらしいのですが 最近デビューした
3歳の 「サム」と言う 雄馬よりも 優秀なようでした。
馬は 歩いている時は 「パカ パカ」と言う 音を立てて歩きますが
走り出すと、 「パッカパッカ」と言う音に変わります。
由布院の交通事情はでは、 馬車が 車より優先だそうです
馬が進入しようとしたら、 車が止まっていました。
今回は ばさし、 辛子レンコン、 だごじるなど 郷土料理をたくさん食べ、
九州新幹線の「さくら」や 「由布院の森」と言う
関西ではあまり 見られない電車の写真もたくさん撮り、
辻馬車や火山の火口など珍しい物も見れた 3日間の旅行でした。
「ああ 楽しかった でも 疲れたよ」 。
来週からは 現実生活が待っています(笑い)
枚方市のM様より、旅行記をいただきました。
最近は健康ブームで健康食品 ヨガ スポーツ等々 色々ありますが
その中で私にでも 簡単に出来ると言う事で歩くことを思いつきました。
歩くということは車などで通り抜けるより ゆっくり四季を目や耳や肌で
確かめながら楽しめます。
私の住んでいる河内長野には まだまだ田畑の間の畦道や山間の道が
残っています。
きれいな空気を吸って 鳥の鳴き声を聞き 緑のにおいをかぎ
川のせせらぎを聞き 自然がいっぱい 一杯で~す。
私は家族向きハイキングコース 10km程を選んで
ヘルパーさんと共に 何組かの友人と一緒に歩いています。
それまでは毎年 風邪を引いたり 胃をこわしたり 低血圧になり
つまりは虚弱です。病院で検査をしてもどこも悪くないのです。
そこで主人の薦めもありヘルパーさんと共に歩こうと言うことになりました。
最初 少しずつゆっくり距離を伸ばして 現在は10~15km位だったら
歩くことができます でも早足ではありませんよ。
こうして歩くことにより以前に比べて自分でもびっくりする位に寝込むことも無く
毎日快調に過せています。
また何よりも仲間も増え 精神的にも晴れ晴れした気分になります。
最近では5月に和歌山県の堀越観音まで歩きました。
ここは私のお気に入りで 河内長野駅からバスに50分程乗り 滝畑ダムへ
そこから堀越観音まで8kmほどの山林をぬっての勾配のきつい山道です。
森林浴をしながら季節の移り変わりを肌で感じて 川のせせらぎや
うぐいすの鳴き声を聞きながら 歩くことは気持ちのいいものです。
やっと着いた時の到達感や汗を流した後の風は涼しくてここちよいものです。
私にはとっても良い距離でした。
この山道は普段から少しずつ歩いて足腰を鍛えましたので歩けたのであって
急にこの様な遠距離は無理だと思います。
皆様も健康のために 生活習慣病にならないためにも 毎日少しずつ
距離を増やして歩きませんか?楽しいですよ~
河内長野市K様からの話題提供
守口市視覚障害者福祉協会主催のタンデム自転車の体験会に
参加して来ました。
タンデム自転車は、大阪府では、公道で乗ることは許可されていないので、
淀川河川公園の外島トラックという運動場での開催でした。
午後1時からA支部長の挨拶などで
始まり、約70名の参加者が順番にタンデム(二人乗り)自転車に乗って、
トラック(1周400M)を2周から3周を各自で走りました。
僕も初めての体験だったので、自転車の後ろのサドルに乗って、
始めは、恐る恐るペダルをこぎました。
前に乗っている人(パイロット)と息を合わせて、
ペダルをふまないとうまく前進できないのです。
しかし、1周回ってからは、要領が判って来て、だんだん面白くなってきました。
3周した後で、違う自転車に乗り換えて、10周ほどしたり、
また変速機付の自転車にも乗り換えたりして、
合計25周(10KM)ほどしてしまいました。
これが、大阪府でも公道を走れるようになれば、視覚障害者も練習がしやすくなり、
トライアスロンにも挑戦できるのですけどね。
今日は、とても楽しい体験ができました。
これを大変暑い中、主催してくださった
A支部長に感謝致します。
本当にありがとうございました。
僕は、昨年の第一回に続いて、100Kです。Mは二度目の挑戦でしたが、
今回は、朝のス タートの時から風雨がきつくて、当日の参加を止めたランナーも
何十人かいたようです。
この大会は、参加者をできるだけ完走させてくれるために
午前5時半からのアーリィスタートもでの中100kmマラソンを完走しましたきるようになっていますが、
僕は、始発電車の都合で、
6時半からの一般スタートにして、走り出しました。
初めは、大阪府庁や府警前の歩道を走ったりして、大阪城公園を2周回り、
その後、京阪電車の地下道をくぐり、毛馬の水門までほぼ直線の道を走りました。
それから、淀川堤防や河川敷道路に出ると、障害物がないため、
風雨は一層きつくなりました。
しばらく走ってから、城東貨物線の赤川鉄橋を渡り、対岸の河川敷を
高槻市方面に向かって走りました。
前半は、道路に多数の水たまりはありましたが、伴走者と二人では、
うまく水溜りを避けて走る事ができず、
まだ元気だったので、足を高く上げながら、
水溜りの中をじゃぶじゃぶと走りました。
風は上流から吹いているので、向かい風でポリ袋と帽子をかぶって走ったのですが、
雨がポリ袋と帽子のひさしにあたって雨音で周りの音が聴こえなくて、
また、伴走者に聞いても前方が雨で煙っていて、
現在何処を走っているかも判らない事がしばしばありました。
エードは約5KM毎に大きな橋の下にありましたが、その度に給水や食べ物を頂いて
エードの皆さんに声援をしてもらって、また走り続けましたが、
この時が緊張が和らぐひと時でした。
そして、また、橋を渡って、枚方公園を超えて、牧野のエードで折り返しました。
折り返し近くになると先行している知り合いのランナーから声をかけてもらったり、
自分がどのあたりを走っているか判るようになりました。
走って来た道を今度は、十三大橋まで走るのですが、
50KMは5時間半ほどで走れました。
50KMを過ぎた鳥飼大橋のエードあたりから、追い風になっていたにもかかわらず
足が重くなってきて、少しずつペースダウンして行きました。
62,8KMの十三大橋での折り返しのチェックポイントのところでは、風雨の中、
寒かったと思いますが、ランナー全員にわーわーずのガイドランナーの
白井さんや久保ちゃんや竹内さんが声をかけてくれたり、
スタンプを押してくださいました。
後半になっても一向に風雨は、止む気配もなく、また、向かい風の高槻市方向へ
77KMの折り返しを目指して、走るのですが、
気温も下がってくるし、疲労も増して、
川のようになった河川敷の道路の水溜りの中を走っても
足首よりも深いところでは、足が上がらずに水に足を取られて、よろめいたりしながら、
走り続けました。
その折り返し地点にやっとの事で、たどりついて、
後は、赤川鉄橋の所まで戻り、
毛馬の水門まで行けば残り、10KMなのです。
しかし、体が冷えてきて、だんだん動きがにぶくなって来ました。
でも、この大会は、リタイアしても回収のバスが来てくれなくて、
自力でもどらなければならないので、ここまで来たら、
リタイアする訳にも行かず、
歩いてしまったら、体が固まってしまい、走れなくなると思い、
ひたすら走り続けました。
後半のエードでは、暖かい味噌汁やスープやおかゆやたこやきなど
冷えた体には、大変元気が出て 、ありがたかったです。
80KMを9時間過ぎに通顆して、毛馬の水門のエードにたどり着いた時は、
10時間47分になっていました。
もう、これで、河川敷の道路は終わりだとおもったのですが、まだ、河口に向けて、
更に激しい風雨の中を2KM走って折り返し、また、このエードに戻ってきてから、
大阪城の方へ戻ると聞いて、一瞬力が抜けてしまいました。
そして、同じエードを94KM地点として、通過して、残り6KMになったのですが
いよいよ体が冷え切ってしまい、とうとう97KMあたりで、歩いてしまいました。
それからは、伴走のダブルさんの叱咤励ましにもかかわらず、
走ろうと思っても足が思うように動かず、もう少しでゴールだと言うのに、
少し走り出しては、また歩くと言う事を繰り返してしまいました。
そして、やっとゴールにたどり着いたと思ったら、
その横を通り過ぎて、天守閣を一周しなければならなくて、
まだゴールは2KM先と言う事でした。
もう、天守閣への上り坂は走る力は残っていなかったので、
もちろん、歩いて登りました。
そして、天守閣からの下り坂はなんとか走り、
最後の100Mは、赤絨毯のゴールロードで雨の中、
沢山の方々が声援と拍手で
僕たちを迎えてくれました。
この瞬間は、ヒーローになった気分で、
ゴールテープを切らせてもらい、完走メダルを首にかけてもらいました。
そして、伴走のダブルさんと思わず抱き合って完走を喜び合いました。
ゴールタイムは、12時間21分41秒で、
昨年のゴールタイムよりも1時間以上早くゴールできました。
ゴールした喜びはありましたが、体が冷えて固まってしまい、
もう歩くのもできないくらい疲れ果ててしまいました。
それで、急いで、着替えをして、ゴール近くで、
マッサージボランティアをしてくれていた、わーわーずのメンバーに
マッサージをしてもらい、やっと体が動くようになりました。
本当に、有難かったです。
ゴールできたのも大会を運営してくれたスタッフを初め、
エードなどでサポートしてくださった沢山のボランテイアの方々のおかげだと思います。
この大会は、まれに見る風雨の中の大会でしたが、
僕の知っている限り、4名の視覚障害者が走り、
全員完走できました。
大阪近郊に住むランナーは、前泊しなくても参加できますし、
伴走者は一人だけという制限はありますが、無料ですので、
視覚障害者も挑戦しやすい大会だと思います。
この大会は、これからもずっと続いて行ってほしいと思います。
それでは、僕の体験記を終わります。
私の家は 基本的には 1階にガスレンジがあります
2年前に 結婚をスルのに合わせて 2階に キッチンと トイレを作りました
その時 ガスの工事は高くつくので IHの システムキッチンを備えてもらいました
工事屋さんに 頼んだのでメーカーは解りませんが
縦 横 40㎝ほどの プレートに 左 奥と 右手前に コンロ部分がある二口の物です
左奥は 普通に料理ができるようになっており
コンロ部分は 見れば解るようになっているようですが 触るとかすかに円型に解るかなと言う感じです
手前に 操作する スイッチがあり
右から 電源 加熱 タイマー 温度の調整の上下キーに並列で並んでいます
また 右手前のコンロは あげものもできるようになっており
こちらは コンロ部分から はみ出ると ぴーぴーと 電子音がなる
ようになっています
こちらも 手前に 操作スイッチがあり
右から 電源 加熱 揚げ物よう 温度の調整の上下キーと
また 並列に並んでいます
1階のガスレンジは 何度も使った事はありますが
2階のレンジは 今だ一人で使った事はありません
この レポートのために じっくり 操作方法を 嫁に聞きましたが
いまいち 使うのに不安を持っています
なれれば ガスだろうが IHだロウが 同じなのかもしれませんが(笑い)
と 言うところで レポートを終わります
我々視覚障害者が一人で買い物をすることはかなりたいへんですが、
特に男性にとって衣服を一人で買うのはなかなかハードルが高いです。
まず店に入ること自体がそれなりに度胸もいりますし、
入店してからさていったいどうしようかと考えてしまうことも多いと思いますね。
私も衣服の買い物はきわめて苦手な方で、まあよくないことですが、
特に普段着の上着などについては、ほぼ親に任せっきりと言うところです。
しかし、ズボンを買うときには、サイズをちゃんと測らないといけないので、
なかなか任せっきりというわけにはいきません。
それにズボン「その中でもジーンズ」は比較的色合いや種類も少ないので、
唯一自分で何とか買えるものの一つとなっています。
今まではさんしん衣料という店で買っていましたが、
ユニクロに行くと、わずか3000円程度で
それなりのジーンズがあるという話を聞きましたので、
思い切って行ってみることにしました。
土日の混雑する日は店員さんも忙しくて
なかなか私一人に長い時間つきあってくれるのも難しいだろうなあと言うことで、
平日の夕方に行きました。
行った店は、京阪天満橋駅の上にある
「京阪シティーモール」の6階のユニクロです。
店は平日と言うことでかなり空いている感じでした。
やはり広いフロアーでしたので、
どこからが店なのか良く解りませんでしたが、
ハンガーに掛かった服などがたくさんあるのがふれましたので、
このあたりが店なのだろうなあと思いました。
となると、次は何とかして店員さんを探さないといけません。
周りの音を良く効いて、レジがどのあたりにあるのか探すことにしました。
手がかりはやはり店員さんの応対の声です。
いくら平日の暇な時間といっても
レジには2分に1回くらいはお客さんが支払いにやってきます。
その様子を聞いて、その方向に近づいていきました。
すると比較的早く店員さんに声をかけていただくことができました。
その後は、私が「ジーンズを見たいので見せてください。」と言うと
、特に躊躇することなく、売り場まで案内していただけました。
そして、値段や色合いなどいろいろ質問しましたが、ちゃんと答えてくれました。
そして試着の際も、試着室まで案内していただき、
無事に試着することもできました。
実際に はいてみた感じは、今までの7000円くらいのものと
あまり変わらないような感じでしたし、
たとえ少々持ちが悪くても、
半額以下で買ったのだからまあ仕方ないだろうと
言うことで、2990円のものを買ってみようと言うことになりました。
店員さんも試着中は、すぐ近くで待っていてくれました。
そして買うこととなり、寸法あわせと寸法を合わせてからのミシンでの縫い合わせまで
20分くらいでやっていただけました。
ということで無事に買うことができ、
エレベーターに乗るところまで店員さんに送っていただきました。
以上が初めてユニクロに行った感想です。
まあ百貨店などのブランドものと比べるのは
次元が違うのであまり参考にはならないと思いますが、
ちょっとなにか欲しいときには良い店かもしれませんね。
また、京阪シティーモールは、
天満橋駅に直結しているので、すごく行きやすいです。
最近増えている大きな道路沿いの店は
基本的に車で行くのに便利になっていますので、
我々が一人で歩いていくのはきわめて難しいです。
私の場合は、かなりまあ下品な公道をする方です。
女性の方の参考になるかどうかは少し疑問かもしれませんが、書いてみます。
ここから書くことは、単独歩行をしているときの状況です。
まずは、食事をすることができる店かどうかの判断ですが、
やはり音とにおいである程度 判断します。
「ゴーーーヲ」という換気扇のような音がして、
そこからなにか食べ物のにおいが出ているのが解ると、
ここはなにか食べ物屋さんだなあと感じることができます。
また、音を聞いていると、たとえば「中華鍋のかちんかちんかちん」という音が
聞こえると、ここは中華料理の店かなあと言う想像が付きます。
また、「かちゃかちゃかちゃ」という比較的小さなコップや、フォークやスプー
ンらしき音かなあと思うと、喫茶店のランチタイムかなあとも思えます。
また、「がちゃんがちゃんがちゃん」と比較的大きな食器やどんぶりらしき音
だと思うと、うどん屋さんか定食屋さんかなあとも思います。
そして、換気扇からおこのみのにおいがすると、
おこのみやきやさんかなあとも思います。
しかし、必ずしもすべてあたりというわけにはいけません。
次に私の場合、食べ物屋さんかなあと思ったら、
店のドアを開けて、
「すいません。ここはなにやさんですか。」と聞きます。
そして店員さんが「まるまるですよ。」という答えを聞いてから
ここにするかどうか判断します。
ご飯が食べたいときに、「喫茶店です。」と言われると、
「なにか定職などのご飯ものありますか。」と聞きます。
そして「ご飯はないです。」といわれると、
「すいません。」といって申し訳ありませんが、そこを後にします。
「ありますよ。」と言われると、どんな定職などがあるか聞いてから入ります。
また、なにかあまり聞いたことの無いようなメニューを言われると、
どんなものかと言うことを聞いた上で、
「申し訳ありませんが、
値段はいくらくらいですか。」と聞きます。
もし昼なのに1500円などと言われると、これまた
「申し訳ありません。」といってここを後にします。
まあ1000円よりも安いとまあいいかという感じで入ることが多いです。
また、うどんが食べたいのに、「ここはなにやさんですか。」
と聞いた店が「お寿司屋さんです。」といわれると、やはり「すいません。」と
いって後にします。
ということで、なにやさんかを聞いて、自分の食べたいものと
マッチしなければ、そこには入らないというのが私のやり方です。
まあ一度のれんをくぐりかけた店からなにも食べずに
後にすることも良くありますので、
まあ強引と言われるとそうですし、
「あんたはなんという恥ずかしいことをするのか」と言われても
確かにそうだとは思いますが、別に間違ったことはしていないと自分では思っています。
それからファーストフード特にミスタードーナツでは、
商品の名前がじつにややこしいので、なかなか新製品を食べることが難しいです。
まあ事前にhpを見て、商品名とその内容を調べれば良いのですが、
何せめんどくさがりなので、ついつい知っているものしか買えません。
あのややこしい名前はどうにかならないのかといつも思っています。
ということでほとんど参考にはならなかったと思いますが、これで終わります。
枚方のM様の場合
食べ物やさんを 探す方法ですが
私も 守口のA様と にてはいますが
まず やはり 一人で始めての店に入る勇気は A様のように亡いので
まず 誰かと行った店を 選ぶようにしています
一度行くと 何屋さんかが 解りますし
で 気にいれば 何回か行くと 店員の対応も変わって来ます
ただ こんな 失敗談も あります
枚方で 全盲の先生と待ち合わせて 食堂街に行ったのですが
「お好み焼きを 食べに行きましょう」と行ってつれて行ったのですが
入った店が なんだか 前に入った雰囲気とは違っていて
「ここは 何屋さんですか?」と 聞けば
「そば屋です」と 応えられたのですが
自分は そこが お好み焼き屋だったと思いこんでいたので
「たぶん 店が変わったのだろう」と 思い
その 先生に 「そばでも 良いですか?」と ことわって
そこで食べました
で 食べて お金をはらって 出て良く見たら
いつも 行く お好み焼き屋さんは 隣でした
と 言う事で
人の 思いこみって怖いですね(笑い)
何回も 行っていても 失敗は有る物です
講師の O様の場合
食べ物屋さんの話、似たような経験があります。
堺市に住んでいたとき、中百舌鳥で友達と待ち合わせて、
昼なので喫茶店に入ろうと二人で入った店で
コーヒーを注文しようとしたら、
ここはうどん屋だと言うのでとりあえずうどんの定食を注文して
食べましたが、何と喫茶店は隣でした。
昨日 青年部の 社会見学で なら町を 1日 見学してきました
クラブ員の F様や 以前 青年部役員だった K様や H様など
総勢 16名で
近鉄 奈良駅 ↑の ミュウジアム 「ならなら館」の 見学や
こうふく寺や さるさわの池 また 5重の塔の 元石跡や
昔ながらの 奈良町などを 1日かけて 歩いて来ました
ならなら館では 原寸大の 大仏様の 手の平に 載ったり
昔の かわらや 大仏様の 顔のレプリカや
3月に 奈良である お水取りで使う 松明の タケなどを見てきました
来年は 奈良で 遷都 1300年のイベントが あるようです
「ならなら館」は 駅の 4回に あります
電話は 0742ー27ー9889
みなさま 一度 歩いて見られたらいかがでしょう
毎年 惰性のように初級の競技会に参加しながら
一度も入賞できずにいました。
中途失明と 指の感覚が時には麻痺する持病のせいにしていたのです。
しかし 今回 4月から 月2回 1時間30分の点字訓練に府視協まで通いました
なぜ そうしようと想ったかといえば、以前は 毎週参加でしたので
通う時間が 足りないとおもっていたのです。
今年度から 月2回になり ガイドさんの時間をやりくりできそうだったから。です。
それから、賞は もらえなくても 成績表の級をあげてみたかったのです。
試験が終わって お弁当を食べて
さて 八尾市のかたがルイ ブライユ氏に関する興味深いお話を話してくださり、
点字表記で 間違えやすいアレコレなどのお話を聴きました。
「なるほどなあって感心して」 審査結果の発表です。
「後は 拍手するだけだなあって」 想っていました。
そうしたら 初級の奨励賞の3人の中に 自分も入っていたのです。
驚きました。
そしてこれも 教えていただいた おかげだと想いました。
毎回の読みの宿題に悪戦苦闘しながら
グループで習ったことが 励みになりました。
自分ひとりでは 自分の気ままに負けていました。
自己流では 自分を甘やかしていたことに 改めて気がつきました。
とても うれしくて 胸がいっぱいになりました。
東大阪市のほかの方々は、 上級のかたなので
もっと もっと 練習してから
数年後 参加できたらと想います。
いつか 団体戦に参加したいと想いました。
今のままでは 足をひっぱりますので 怒られそうです。苦笑
競技会は、みなさん 真剣にとりくんでおられます。
今度は、 私も と 新しい目標を持ちました。
この 夏で一番の思い出です。
2009年8月吉日